2025大定例会 2025.6.13(金) 浜野製作所 浜野慶一会長 基調講演レポート

浜野製作所とは

東京の下町、墨田区にある浜野製作所は、一見すると精密板金などを営むただの町工場にしか見えない。しかし、浜野慶一会長以下、社員は活気にあふれ、その技術力は高い評価を受けている。まさに「リアル下町ロケット」とも称され、町工場の雄とも言える存在だが、それ以上に、中小企業やベンチャーの力を引き出すプロジェクトやインキュベーション事業を次々と手がけ、町工場には留まらない新たな中小企業像を作り出している。

枚挙に暇がないほどだが、数々の受賞歴や名誉ある訪問なども受けている。
2008年経済産業省中小企業IT経営力大賞、東京都中小企業ものづくり人材育成大賞奨励賞、深海探査艇「江戸っ子1号」で2014年内閣総理大臣賞と中小企業庁長官賞、2018年には最も権威のある経済産業省「第7回日本ものづくり大賞」を受賞。
そして、当時の天皇陛下(現在の上皇陛下)の行幸先にも選ばれた。2019年6月27日には、ニューヨークの国連本部で開かれた「国連中小企業の日イベント」に招待され、自社の事例を発表。2020年に小池都知事視察なども。


また地元墨田区への思いは強く、地域の中小企業を活性化するために様々な活動を展開している。
2009年には早稲田大学、墨田区と連携し、墨田区中小企業の力を結集して、電気自動車「HOKUSAI」を開発。
2012年には本格的なアルミボディを持った3号車が完成。2013年に世界初の7800メートル深海で生物撮影に成功して国内外から注目された深海探査艇「江戸っ子1号」のプロジェクトにも参加。
2009年から始まったこのプロジェクトには、墨田区・葛飾区や千葉県の中小企業4社が集まり、大学や研究機関、金融機関などの支援の下、始まったもので、製造コストを抑え、市販品のカメラやライトを使って何度も深海撮影ができる画期的な探査艇である。2015年には支援先でもある海洋研究開発機構に4機納入された。
2014年4月には「ガレージスミダ」を設立、スタートアップベンチャーのインキュベーションとして開発・設計から試作まで支援している。遠隔操作できる分身ロボット「OriHime」を開発したオリィ研究所などを始めとして、のべ475社も支援している。

そして、昔は、全く採用ができず、応募者が工場を見て逃げ帰ったという浜野製作所が、いまでは一橋大学や早稲田大学の学生なども入社し、活躍している。

 

その原点、二代目として引き継いだ頃は何とドン底だったことか?

浜野製作所は福井県出身の金型職人である父親の嘉彦氏が1967年に金属金型工場として創業した。
父からは家業を継げとは言われなかったが、大学4年の時に、「中小企業は楽しいぞ」というひと言を聞き、継ぐことを決意したそうだ。父の「ものづくり」に対する情熱を強く感じていたとのことである。
大学卒業後、精密板金メーカーで8年間修業し、1992年に入社。当時は60歳を超える職人が2人、取引先はたった4社、年商は3000万円程度。
入社翌年の1993年、父が病気のため52歳で急逝する不幸に見舞われ、やむを得ず29歳の時、社長に就任。父から教わりたいことがまだたくさんあったのにと、涙を飲むしかなかった。また、仕事の師匠だった母も、その2年後に54歳の若さで亡くなった。


そして、追い打ちをかけるように、5年後の2000年6月30日朝10時半頃、隣家からのもらい火で、自宅兼工場が全焼。小さな町工場だが、両親が命をかけて引き継いでくれた大事な工場。周辺が17軒も焼失する大規模な火災だった。この火災で会社は壊滅的な打撃を受けた。当時の従業員は、母が亡くなった後に来てくれた5歳年下の金岡裕之氏(後の専務取締役)ただ一人。火事は昼間だったので幸い、死傷者は出なかったが、放っておけばお客様への納期遅れで迷惑をかけるのではと思い、まだ火が燃えている最中に、地元の不動産屋に飛び込み、貸し工場を探してもらった。親切な不動産屋はすぐに手配して、数時間後には大家を紹介してくれた。

次に加工機械を用意しなければならないが、機械を探しに出かけても、欲しかった30万円の中古機械は買えず、店の一番奥にあった1万円の古い足踏み式工具「ケトバシ」―その名前の通り、足で蹴飛ばしてプレスする機械―を2台買い、何とか仕事を再開することにした。

工場の焼け跡から使えるものを探し出し、仕事が終わった後に、煤だらけの4000に上る金型を拾い出し、当時、唯一の若手社員だった金岡氏と一緒に毎日、休み返上で磨き続けた。まもなく大量の督促状が届き、取り立てが始まる。いつ会社が潰れてもおかしくない状況だった。
17軒にまで延焼した火災の原因は、ガスバーナーを使って隣家の改修工事をしていた解体作業員のミス。改修工事の元受け企業は、東証一部上場の住宅メーカー。復旧と納品に明け暮れる毎日で、補償額が決まったのはその年の12月、翌年2001年1月16日の朝9時に手続き終了後、直ちに損害賠償金6,000万円を支払うという。工場と家屋敷と機械をすべて失い、両親や幼少時に病気で亡くした娘の形見まで失ったのに、火事の代償としては到底納得いく額ではなかった。しかし、たった一人だけの従業員に給料も支払えず、30万円の中古の機械も買えない、督促状が山ほど来る現実を前にやむを得ず承諾した。手続き前日の1月15日、昼食の際、テレビのスイッチを入れた瞬間、相手先の住宅メーカー倒産のニュースが流れた。
「ちょっと見てくる。何をしたらいいか、まったく思いつかない。でも今後どうすべきか、俺は死にもの狂いで考える。必ず俺の方から連絡するから、お前は体を休めてほしい」と金岡氏に言うのが精いっぱい。出掛けに「午後から上がってくれ。帰る時、電気はちゃんと消してくれよ」と伝え、倒産先に急行した。倒産した会社にはロープが張られ、外から眺めることしかできない。1月16日に支払い日を設定したのは自分。とにかく仕事を受注しないと先がないので、補償問題に時間が割けない日々だった。後悔しても今さら仕方ない。夜中過ぎ、貸し工場へ戻ると電気がついており、金型のさび落としをしている金岡氏の姿があった。その背中を見ると気の毒で、かわいそうで、申し訳なくて、自分自身が情けなくなった。思わず駆け寄り「もうやめよう。この会社の後始末は俺一人でやるよ。お前には別の会社を紹介するから明日からそこに行ってくれ。本当に今までありがとな」と言った。すると「社長、俺は金が欲しいからここにいるんじゃない。俺はアンタと仕事がしたいからここにいるんだ。まだ会社が終わったわけじゃない。浜野製作所はまだ潰れてないっすよ」と言ってくれた。
不眠不休で働き、身も心も限界を超え、最後の頼みの綱だった住宅メーカーが潰れたその日なのに。涙が止まらなかった。明日にはなくなっている会社かもしれないけれど、そういう思いで一緒に働いてくれるスタッフがたった一人でもいてくれるような会社になれるのであれば、そのスタッフに常日頃から感謝の思いをもって仕事をさせてもらおう。そして共に働いてくれる社員に必ずや還元ができるような会社になっていこう。夢と希望と誇りをもった活力ある会社にすることが、社員に対する最大の恩返しであり、浜野製作所のめざす姿であり、社長がやるべき大切な仕事だとこの時覚悟したという。この時の経験が反映されて、浜野製作所の経営理念は生まれた。

経営理念は『「おもてなしの心」を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りを持った活力ある企業を目指そう!』だ。
そのための行動指針は、「速い事」「行動に移す事」「努力・工夫をする事」「協力する事」「継続していく事」とし、トップを筆頭に経営理念にそぐわないことは一切行わない。
何か新しいことを始める時や修正する場合は、必ずパート職を含む全従業員に説明して進めることを徹底して行っている。
先の金岡氏の言葉で浜野氏は奮い立つ。まずやるべきことは資金繰り。必死に食らいつき、東京都と墨田区で何とか低金利の自治体融資を受けることができ、新しい設備を導入して、次は新規の顧客開拓に乗り出した。紹介してもらった4社には、門前払いされたが、何度も訪問することで「なるほど、今こういうことに困っているのか。ここから何とか切り崩しができるのではないか」とヒントをもらった。すでに取引先が何社も参入している中を営業に行くので、通常は到底勝ち目はない。しかしそれでも「困っていることはある」と確信し、夜討ち朝駆けで粘った。通常1週間の仕事を3日で仕上げる短納期や他の工場が受けない1品物を武器に業容を拡大して現在に至るきっかけとなった。

 

変革のきっかけ「ありがとう」と言われるものづくり

工場全焼から始まるストーリーは最も印象的であったが、もう1つ、20年前にあった、今の浜野製作所につながる大切なエピソードも紹介された。
それは、会社ホームページの中に作成した問い合わせページへの依頼がきっかけだった。
もともとは、各種メーカーから、部品製作の問合せを受け付ける目的で開設されたものだが、実際には消費者からの問い合わせが多かった。本来の業務とは関係がない仕事の問い合わせが舞い込んできたが、可能な限り依頼に応じ、色々なものを製作した。このページへの問い合わせの中に、パイプ加工を依頼するものがあった。用途などを詳しく聞こうと依頼主に電話をすると、交通事故で下半身不随になってしまった5歳の女の子を持つ30代の父親からの依頼だということがわかった。依頼主は、リハビリテーションにより機能回復が可能だとする医師の診断を信じ、自宅に置くリハビリテーション器具を探していた。しかし、そのような器具がなく、ベッドメーカーなどにも製作を依頼したが断られていた。父親はやむなく、介護用ベッドを改造してリハビリテーション器具を自作しようと、浜野製作所にパイプの加工を依頼した。このような経緯を知り、娘の6 歳の誕生日プレゼントにしたいという父親の意向を汲んで、社員とも相談し、一週間でリハビテーション器具を完成させ納品した。娘の喜ぶ姿を見た父親から感謝の言葉をもらった浜野氏は、ものづくりの大切さ、やはり誇り高い仕事なのだということを、改めて感じたという。当時はまだ社員5、6人の会社だったが、そんな小さな町工場でも、そのお父さんの夢を叶え、娘さんに未来を示し、家族の絆を結び直すことができるんだと。それも経営者としての原体験の一つであり、これからも人から「ありがとう」と言ってもらえるような仕事をしよう、と誓ったという。

 

しかし、どうやって今のような会社になれたのか?どうしても想像が追い付かない。→それは3月の訪問で明らかになる⁉

この2つのエピソードに代表される人と人との関わりを大事に、「おもてなしの心」を持って、ステイクホルダーに感謝していくという、製造業ではあまり聞きなれない姿勢が、浜野製作所の基盤となっており、躍進を支え続けていることは十分に推察できた。ただ、何もない焼け跡からの再出発から、今日の多方面に及ぶ、幅広く厚みのある事業展開にどうやって到達できたのか?どのようにして、短期間で現在に至ったのか?
どうにも想像が追い付かない。何か中間の大事な部分が抜けているのではないか?すごい秘密がまだまだ隠されているのではないか?と思わせてくださった浜野会長のお話でした。

消化不良の部分は、次の企画(2026年3月実施・事業所訪問)に続きます。

文責 創新塾90期生
合同会社IGM 代表社員 河合利彦

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