2024年11月に傘寿を迎えられた我らが髙良高塾長。
日ごろから常に熱い経営道についてお話いただいてはいるものの、塾長の生い立ちやご自身の経歴についてじっくりと時間をとってお聞きする機会はありませんでした。
この節目の年に塾長自ら自分史を語っていただこう!と企画したのは田村俊一新市長。
遠方の方にも参加していただきたいとオンラインでの開催となりました。
当日の参加者だけでなく全ての卒塾生に聞いていただきたいお話の数々。
是非ご一読いただき、皆さんそれぞれの「気づき」、「こたえ」を見つけてみてください。
「こたえはここにある」かも…
Contents
<学生時代> (7~24歳)~学業に励み、アルバイトで家庭を支えた時代~
沖縄から上京し、大変貧しい家庭環境だった為、小学校5年生から新聞配達などのアルバイトに明け暮れた日々を過ごされたそう。
「中学時代はゴルフのキャディとして左右の肩に2セットずつ、計4セットのゴルフバックを担ぎながらコースを走り回り、疲労で倒れたこともありました。」
高校からは主に家庭教師を。
大学時代は住み込みで牛乳・新聞・クリーニングの配達をしたり、農業の手伝いをしたり…合間に猛勉強をするしかなかったそう。
大学4年の時点で未だ将来が不明確だったため、産業能率大学で2年学ぶことに。
その間、株式会社田辺経営(現:株式会社タナベコンサルティング)の創始者、田辺昇一氏や船井総合研究所の創設者、船井幸雄氏の著書を読む。
「将来この二人のようなコンサルタントを目指そう!と決意したのはこの時期でした。」
<株式会社市光時代>(24~31歳)~無我夢中で仕事し、生きることに懸命だった時代~
「はじめの会社には7年がむしゃらに働くと心に決めていました。」
とにかく実務経験を積んで将来のコンサルタントへの道に繋げて行きたかったのだそう。
「この当時の段階はビジョン模索段階でありました。」
<株式会社田辺経営時代>(31~38歳)~ビジョン実現に向かい果敢に挑戦した時代1~
田辺経営か、船井総研のどちらかでコンサルタントとして働きたいと就活をしていたところ、田辺経営から声がかかった。
東京支社にてすぐに面談を受け、即合格したものの、提示された給料は現在の手取りの半分になる上、九州へ赴任しろとの訓示で、妻と2歳の娘を連れて最初の赴任地九州へ。
「身体を壊すほど必死に働きました。不整脈が出るは、十二指腸潰瘍を患うは、血尿は出るは…。手取りが減って、井戸の周りにナメクジがうようよいるような家しか借りられず、家族にも本当に苦労をかけました。」
<株式会社十和田時代>(38~40歳)~ビジョン実現に向かい果敢に挑戦した時代2~
3年が経ち、仕事にも慣れたころに今度は東北6県の責任者を任されることに。
この間色々な会社を担当し解ったことはやはり「経営は人なり」であるという事。
「鯛は頭から腐っていく。」トップに立つ人が何よりも肝心であると実感したという。
また、東北時代には忘れられない辛い思い出も… ある企業で労働組合と役員との折衝に立ち会った。
労組から激しい昇給要求があったものの決着がつかず、話し合いは翌日に持ち越しに。
しかし翌朝になっても社長が姿を現さなかったため自宅へ向かうと、倉庫で首つり自殺をしていたという。
「ちょうど朋宏が生まれた年の出来事でした。中小企業の経営者を育て、助ける仕事を一生涯をかけてするぞ!と心に誓った出来事でした。」
東北時代の経営者に東北大震災後にお会いする機会があり、それぞれ事業に甚大な被害を被った中で、3つのタイプの経営者に分かれていたそうだ。
- もう懲り懲り (事業再開はせず)
- 細々と継続
- ゼロからの再出発なれど完全に復活!
経営者の心意気と取り組み方次第で未来は変わる。
「自分から白旗を揚げない限りどうにかなるものです。辛い辛いと現状を嘆き、不安になる気持ちはわかりますが、困難苦難に真剣に向き合い、立ち向かっていますか? 本当に恐れなければならないのは、真剣ではないあなた自身ですよ!」
<株式会社ARC時代> (40~49歳)~外資系企業にて視野を広めた時代(”心“を磨き高めた時代)~
前職では”やり方“を徹底的に学び、
株式会社ARCでは“あり方”、“生き方”を、(5年の予定が9年かかって)学んだという。
「宇宙の法則」のように、この世で起こるすべての事は原因があっての結果。
良い結果を求めるのであれば、意図して良い意識・決断と良い行いをやり続けることが肝要。理念を生きる!利他の心!
田辺経営時代からARC時代まではビジョン準備(使命感確立)段階。
<創新時代>(49歳~)
49歳時、いよいよ三兄弟で創新塾、経営コンサルタント、研修事業をスタート!
兄は精神面、弟は会計、自分は経営の原点探求・実践に精進することを誓う。
と、ここで塾長、織田信長が「本能寺の変」で49歳の若さで自害する際に舞い歌っていたと伝えられる有名な幸若舞「敦盛(あつもり)」を披露!
「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・」(人の世の50年間は天界の時間~仏教における六道の時間~と比すれば短いものであり、夢幻のように儚いものだから思う存分に生きよ!)
コンサルタントとして独立するにあたり、思い起こされるのは松下幸之助氏からの助言だという。
田辺経営時代に田辺社長と松下幸之助氏との対談のテープ起こしを命ぜられ、対談に同席した際、対談の終わりに松下氏から問われたそう。
松下「あなたの夢は何ですか?」
高良「日本一のコンサルタントになる事です。セミナー教育日本一を目指します!」
松下「これからの教育は知識ではなく“あなた自身の生き方を教える”のですよ。“信念”をよく思い浮かべて。心を信じ切るのですよ。」
この教えるべき “生き方” こそ「創新経営者の心得」なのである!さあ、皆さん今一度!
一、自分が源泉、自分が全責任者
一、100%参加、今に徹する
一、正直に真実を伝える
一、決めた事は必ず実行する
というあり方を生きる!
<創新塾スタート>
1994年(平成6年)創新塾がスタート。
経営は人、特にTOPによるものと経験していたので対象者は経営者とする。
目標は100期!1年に4期としても25年かかる。1期6人とすると600人の卒塾生を出す計算。実際には卒塾生650人、100期終了までに30年かかった。
塾に学びに来る経営者の中には「楽して利益を上げたい」と言う人も多いが、一番大切なものは理念とビジョンだという事を徹底。
そして経営者として100%(99%ではダメ)肚を括る“覚悟”を持つことの大切さ、難しさに文字通り“目覚め、悟る”学びの場が塾であった。
人は水を飲まないと生きてゆけないが、水を飲むために生きているわけではない。つまり、
利益を出さないと経営できないが、利益の為に経営しているわけではないのだ。
「さあ、あなたは何を創り出したいのですか?」
<創新ネットシティ創設>
塾が始まってから3年ほど経った1994年(平成9年)にネットシティがスタートした。設立の経緯は以下のとおり。
- 生涯成長したい(自分一人だと堕落、甘え、惰性になってしまう)
- 原点に帰れる場が欲しい(経営の原理原則、生き方、在り方、情熱、信念等を呼び起こす場)
- 真の経営者、立派な経営者、本物経営者になりたい
- 共に成長発展する生涯の経営者仲間が欲しい
- 塾での学びを実践する場を持ちたい
- 本物企業同士のビジネス競争の場が欲しい
設立当初のビジョンでは、100期×6人=600人の卒塾生のうち、「2:6:2の原則」に従い、全卒塾生の2割=120人の本物経営者による日本一の異業種交流会を目指していた。
現在、ビジョン実現に向かって挑戦段階である。
<人生総まとめ段階>(80歳~)
これからの人生は般若心経「空」の探求と実践を通して人生の真の目的、生き方、真の経営についての総まとめの時代となるであろう。
「持てる能力を最大限生かして世の中に貢献していく」と力強く語った。
最後に卒塾生へのエール
「経営に困難苦難は途切れないもの。困難苦難には安心してぶち当たりなさい。常道なのだから。それに己の器に合った問題(天から与えられたもの)が起きているのだから心配ありません。自分で白旗を揚げない限り大丈夫!」
「楽しかったこと、うれしかったことは案外忘れても、困難苦難は明確に覚えているもの。なぜならそれらは尊いものだから。困難苦難を突破した時の喜びは突破した人にしかわからない。それが本当の充実感というものです。私自身も色々とありましたが、今が一番幸せです。」
編集後記
塾長、そして企画・コーディネーターの田村新市長、ありがとうございました。
塾長の壮絶な人生経験と、100%腹をくくった生き様を拝聴する機会を持つ事が出来、大変光栄でした。塾やネットシティでの塾長のお言葉が益々重みを増して感じられます。これを機会に、これからの生き方・あり方を見つめ直したいと思います。
追記:当日は田村氏による掛け合いで、塾長の若かりし頃の面白エピソードや、視聴者からの質問の数々に答えるコーナーなどありましたが、割愛させていただきました。ご了承くださいませ。最後までお読みいただきありがとうございました。
文責 創新ネットシティ 第9代市長 原田靖子